「何、それは真か!?」
「はい、民部卿殿。お生まれになられたのは間違いなく皇子とのことでございます」
 天暦四年夏、民部卿藤原元方もとかた公は、娘である祐姫すけひめ様が皇子をお産みになられた報を聞き、天をも駆ける勢いで娘の元へお向かいになりました。
「祐姫、祐姫! 生まれたのは真に皇子か!?」
「はい、父君」
 ご出産を終え息が整いし祐姫様のお身体には、止む事無き皇子が抱かれておりました。
「大儀であった、祐姫! これで、これでようやく我等に光が当たる!」
 民部卿殿が大層お喜びになるのも無理はありませんでした。祐姫様は時の帝であらせられた村上天皇の御息所みやすどころの一人。村上帝には数多あまたの御息所がおりましたが未だ皇子はお生まれになっておらず、後に広平ひろひら親王と名付けられるこの子が村上帝の第一皇子となるのでした。
「ええ。この子が東宮となり帝となれば……」
 民部卿殿は藤原家の身であるとはいえ、当時一大勢力を誇っていた藤原北家とは異なる藤原南家のご出身でございました。元は同じ藤原家であるとはいえ、実権をほぼ掌握していた北家以外の藤原家の宮中での実権はなきに等しいものでした。
 それで帝に嫁がせた祐姫様に皇子がお生まれになりその子が東宮にでもなれば、南家の力も増す。お生まれになられた広平親王殿下にはそのような一族の期待がかけられていたのでした。
……ですが、その願いが叶うことはありませんでした。広平親王ご生誕から間もない天暦四年皐月二十四日、師輔公の娘であらせられる安子あんし様も皇子をお産みになられたのでした。憲平のりひら親王と名付けられしこの第二皇子は、実力者の娘が産みし皇子とのことから、それから二月後の文月二十三日に立太子為さられたのでした。
 夢つい果てた民部卿殿は、失意の内天暦七年弥生二十一日に崩御されました。そして残されし母子も不遇の時を過ごすのでした。
 そして、憲平親王が冷泉帝としてご即位為さられた康保四年の文月十五日、祐姫様はご出家為さられたのでした。
「母君、母君。何故、我一人を置いて出家されるのですか!?」
 ご成長されし広平親王殿下は母君のご出家に酷くご反対のご様子でした。
「あの忌々しき憲平が帝となりし今、我等の願いは完全についえました。ならば出家し、父君の霊を慰めるのが私の生き方です」
 失意のまま崩御されし元方公は、怨霊となり憲平親王に取り憑かれたというのが宮中でのもっぱらの噂でした。また、それを示すかの如く、憲平親王は時々怨霊に取り憑かれたかの如き狂想を見せておりました。それ故、祐姫様、広平親王殿下の宮中でのお立場は肩身の狭きものでございました。
「ならば我も出家致します! 我を一人にさせないで下さい!」
「広平! お前は元服した身とはいえまだ未来があります。出家するとは未来を絶ち切るのと同等の行為。お前が出家するにはまだ早過ぎます。それにお前は一人ではないでしょう。晴明殿に頼光殿、数少なきとはいえ我等を快く思う者はおります」
「いいえ! 我には母君しかおりませぬ! 晴明殿も頼光殿も我にとっては大切な者なれど、母君の比ではありませぬ!!」
「広平……お前は私のように何の力も持たぬ母と言えども、大切だと言うのですか……?」
「ええ、ええ! 我にとっては母君がすべてであります! 母君の為ならば我は我が生涯を母君の為に捧げることも厭いませぬ!!」
 そう心の底から母への愛を語りし刹那、広平親王殿下は母君に抱き付き大声で泣き出したのでした。
「母君……母君っ……!」
「広平……。お前はそこまで母のことを…。そんなお前に何もしてあげられなくて本当に……本当にごめんなさい……」
 祐姫様もまた広平親王殿下を包み込むように抱き抱えお涙をお流しになりました。その母の涙を見て広平親王殿下は心に誓ったといいます。いつか必ず母君の願いを叶え、そして母君を都へ連れ戻すと。


巻七「不遇の血統」

「いい加減諦めたらどうだ、頼信?」
「まだまだぁ! この程度で俺は引きはしない!」
 未だ柳也殿の優勢は揺るいでいないものの、それでも尚頼信殿は立ち向かって行くのでした。
「うおおお〜!!」
「ヒュッ!」
「そこまでにするのだ、頼信」
 柳也殿に一撃を加えようとする頼信殿を、頼光殿はいとも簡単に制したのでした。
「なっ、兄者!?」
 突然兄君が制したことに頼信殿は唖然として拳を止めたのでした。
「頼光殿。弟の身を案じて後でも追って来たか」
「ええ。然れど、どうやらそれは杞憂のようでしたね。でん…いえ柳也殿、やはり貴方は”身内”には甘いようですね」
「何を言ってるんだ、兄者」
「頼信、お前はまだまだ柳也殿には敵わぬということだ」
「なっ!?」
 頼光殿の発言は頼信殿の敗北を断言したかの如き発言で、頼信殿は腑に落ちないご様子でした。
「確かに、劣勢なのは認めるが……。然るに、俺は殆ど疲れを感じておらぬ。故にまだまだ戦える。長期戦になれば若さで勝る俺に必ず勝機が……」
「いや、それはあり得ぬ」
「何故に!?」
「頼信、お前は今まで持てる力すべてを使い柳也殿に挑んでおったか?」
「それは言われるまでもない!」
 そんなこと聞かれるまでもないと、頼信殿は口を開きました。
「そうか。ならば、お前はやはり敵わぬ!」
「なにぃ! 手を抜いているのならばともかく、十の力で挑んでいるのに敵わぬと兄者は申すのか!!」
「ああ。何故ならば柳也殿は十の内、二、三の力しか出しておらぬ。それ所かお前に力を分け与えているのだ」
「っ!?」
 本気を出してはいない所か、力を与えている。確かに柳也殿ならそれも可能でしょうが、ならば何故頼信殿に力をお与えになられているのでしょう?
「し、しかし力を出し切っておらぬというのはまだ話が分かる。然るに俺に力を与えているとはどういうことだ!?」
「それは柳也殿ご本人にお聞きになるのが一番早いのだが……」
「……」
 その件に関し、柳也殿は沈黙を続けました。
「どうやら……仰っては下さらぬようですね……。ならば力尽くでも語らせて頂く!」
「面白い! 思えば久しく貴殿と手試合しておらぬかったな。あの頃は頼光殿に敵わなかったが、今はそう簡単に負けはせぬ!」
「では、遠慮なく行かせて頂く、殿下!」



「あの、大丈夫ですか……?」
 柳也殿と頼光殿が交え始めし時、私は頼信殿の元へ駆け付けました。あれだけの激しい闘いを繰り返し無傷で済んでいる訳はないと思い、見ず知らずの方とはいえ怪我を負っていないか大層気になっておりました。
「貴方は……遠目でしか見ておらぬが、あの鬼めと共におった者か?」
「はい。名を裏葉と申します」
「裏葉か、良い名だ。俺は源頼信という者だ。案じてくれるのは嬉しいが、不思議に身体に傷はない」
 そう仰られる頼信殿の身体をまじまじと見ますと、確かに傷らしきものは見当たりませんでした。
「癪だが兄者の言う通り、奴は手を抜いていたようだな。くそっ、いつもいつも俺をコケにしやがって!」
「あの、何故そこまで柳也殿を目の仇に為さられるのですか?」
 何故自らを省みず愚鈍に柳也殿に立ち向かって行ったのか?その訳を私は訊ねました。
「奴は理由は特に分からぬが、昔から兄者と仲が良かった。物心ついた時には既に奴が俺の目の前にいた」
 つまり、それだけ昔から柳也殿と親交があるということなのでしょう。私より長き刻柳也殿と面識があるのは大変羨ましい限りです。
「兄者との仲ということで、奴は俺が元服を迎える前後から手試合の相手をしてくれた。
 だが、俺は奴に敵ったことは一度もなかった! そして俺が負ける度奴は俺を嘲笑った!!
 その奴の態度が気に食わず、俺は次こそは奴に打ち勝つと闘争心を燃やした。そして事ある度に俺は敗北を味わい、臥薪嘗胆の思いで再戦を誓った!
……然るに……」
 熱く語り出したかと思えば、急に頼信殿は静かになり、柳也殿と頼光殿が相対している方に目を向けました。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァァァ!!」
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァァァ!!」
 二人の動きは頼信殿の時と比較にならぬ程速き動きで、最早私には何をしているのかさえ分かりませんでした。
「然るに、あの鬼目と柳也殿の闘いを見ると、あの鬼が散々俺に言ったことが痛いほど分かる……」
「それはどういう言でしょう?」
「”頼信、お前は頼光殿にすら敵わぬ。”それが奴の口癖だった。同じような言もつい先程言われた。
 然るに、今のあの二人の動きを見る限りその言葉を認める他はない…。
 彼を知り己を知れば百戰してあやうからず、か。ようやく俺は自分の力の程度を理解出来たな…」
 いつか打ち倒したい目標、その目標に向け精進に精進を重ねるも、未だ届かず……。それを認めるのはさぞお辛いことでしょう……。



「あの、頼信殿。柳也殿に関し何か存じていることはないでしょうか?」
 頼信殿が一息ついた頃合いを見計らって、私は訊ねました。話を聞く限り頼信殿は柳也殿と何十年もの付き合いをお持ちのようです。その頼信殿なら私の知らぬ柳也殿の一面を知っていると思い、訊ねてみた次第でした。
「それを訊ねるならば俺に訊ねるより兄者に訊ねた方がいいだろう。先程話した通り奴は俺が物心付いた時から兄者と親交があった。そんな兄者なら俺の知らぬ柳也殿の秘密を知っているだろう」
「先程の話を聞く限り頼信殿は柳也殿と長きご親交があるように見受けましたが、そのような頼信殿にも分からぬことはあるのですか?」
「ああ。分からぬことばかりだ。俺は基本的に奴の表面しか知らぬ。奴は何処の馬の骨とも知れぬ者なのに、下手な家柄の者より昇進が早く、また地位が高かった」
「それは単に柳也殿が武勲に優れていたからでは?」
「いや、この世の中武勲の高さなど出世にはあまり重要ではない。重要なのは家柄だ。武勲ならば俺の兄者など層々たるものだ。然るに、家柄の関係から地位はそれ程高くはなく、四十五を過ぎたというのに未だ従六位だ。
 対し、奴は兄者より年下なのにも関わらず従五位だ。出生が分からぬまでにもその高き地位の所以は何かと周りに訊ねても答えを返せる者はいなかった」
 出生が分からぬのに昇進が早く地位も高い。そしてその所以を知る者は誰もいない。顔を朱に交わりし面で覆いし心優しき丈夫。そういった目でしか私は柳也殿を見ておりませんでした。ですが、その素性は何者よりも深き闇に包まれている……。果たして私に柳也殿の素性が分かる日は来るのでしょうか?
「素性が知れぬのに地位が高い。それが俺にとって一番気に食わないことだった……。摂関家ではないが我等が源氏は清和天皇を祖とした由緒正しき家柄だ! だが俺は、母方の祖父の不遇により周囲の目は冷たく地位も望めぬ!」
「母方の祖父の不遇?」
「ああ……」
 頼信殿は静かに語ってくれました。自分の母方の祖父は藤原元方公。その元方公は伯母にあたる元方公の娘祐姫様のお産みになられし帝の子が東宮になれなかったことから、失意のまま崩御された。
「ここで終われば話が良かった。だが、元方殿は死後己の孫に代わり東宮となった憲平親王に取り憑いたと宮中で噂されるようになった。それに加え伯母の出家にその子である広平親王の病死が重なり、元方殿の血は呪われし血だと囁かれるようになった……。
 そして少なからず元方殿の血を受け継いでいる俺の血も呪われていると揶揄されるようになり、後は先程言った通りだ」
 親戚筋の不遇により浴びせられる冷たき視線と待遇。家柄が良いのも関わらずその影響で自らも不遇に処されているからこそ、柳也殿の対する負の念がより一層強いものとなっているでしょう。
「然るに、頼信殿。何故そのような重大な話を私に?」
「さあな。ただ、何となく貴方に話して見たくなった。もしかしたなら貴方に一目惚れしたのかもしれぬな」
「あらあらまあまあ。頼信殿はご冗談が上手いですわね。私のような村娘、柳也殿ならともかく頼信殿のような家柄のものには不釣合いでしょう」
「確かに。されど、恋に身分は関係ないであろう?」
 確かに、恋に身分は関係ありません。例え柳也殿が出生の分からぬ身であれ、私の柳也殿に対する気持ちは変わらぬものでしょう。



「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァァァ!!」
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァァァ!!」
 二人の闘いはまだ続いておりました。先程のような一方的な闘いではなく、両者共に引かぬ闘いを演じておりました。二人の動きを目で追えぬものの、それくらいのことは理解出来ました。
「ちぃ! 流石と言うべきか、あの鬼と兄者の動き、辛うじて把握出来るか否かか!」
 どうやら頼信殿にも二人の動きはよく追えぬご様子でした。
「ほう、見た所兵のように見えるが、あの二人の動きが見えぬとは大したことないのう」
「何だと!」
 森の中から頼信殿を嘲笑うかの如くお姿をお見せになられた神奈様。その神奈様のお言葉が逆鱗に触れたのか、頼信殿は大声で神奈様に言い返しました。
「ならば、月讀宮様には見えるのか? 止む事無き方とはいえ所詮は童女。童女にあの動きが見える訳あるまい」
「うぬぅ! ぶ、無礼な! この雑兵が!!」
「何だと! 止む事無き方とはいえ、今の言は許さぬぞ!!」
「お二人とも、気を落ち着かせになって下さい!」
 このままいけばやり場のない罵詈雑言のけなし合いが続くと思い、私は二人を制しました。
「ちっ、相手は童女どというのについ熱くなってしまった」
「まだ言うか!」
「神奈様! ここは気をお抑え下さい!」
「うぬぅ〜、分かった。ここは余が引く……」
 私が再度制したことにより、神奈様はようやく気を落ち着かせになりました。
「頼信殿、確かに余にはよくは”見えぬ”。然るに余には二人が何をしているか”理解出来る”」
「それはどういうことだ!?」
「余は一度見た物は忘れぬ。つまり例え目の前で行われていることが視覚で把握出来なくとも、何をしていたかは分かる。
 面白いことに、二人の闘いはある一定の行動を繰り返しておる。ようは同じ動作を幾度となく繰り返しているのだ。よって、最初に覚えた動きに応じて二人の行動を見れば良いのだから、はっきりとは目には見えぬが、”理解は出来る”のだ」
「……」
 翼人たる神奈様の類稀なる記憶力に、頼信殿は唖然としました。数ヶ月とはいえ神奈様にお仕えしその類稀なる記憶力を肌で感じていた私でさえ驚きは隠せませんでした。
 一度覚えたことは忘れぬ。それは一度目を通した書物の内容や人の話を忘れぬということだと今の今まで思っておりました。ですが神奈様は人の動きすらも一度覚えたら忘れることはないと仰られるのです。
 剣術や武術には型があるという話を聞いたことがあります。それは剣術や武術をより発展させる為に必要なのでしょうが、そのような型に拘る人間ほど神奈様には敵わないのでしょう。
「うぬっ!」
「神奈様、どう為されました?」
「いや……今二人が今までとは異なる動きを見せた……」
「流れが変化したということか!?おい、一体どっちに……」
 ガスッ!
「ぐはっ!」
 頼信殿の態度がお気に召さなかったのか、神奈様は頼信殿の脇腹を思い切り殴り付けました。
「言葉を慎め、言葉を!」
「す……すまぬ……。では改めて訊ねるが、どちらかに流れが変化したのか?」
 気を落ち着かせ、頼信殿は改めて問い質しました。
「うむ。流れが変わった」
「どちらに! 兄者にか!?」
「いや。柳也殿に動いた……」



「どうした!? 腕が鈍くなっておるぞ頼光殿。流石の頼光殿も年には勝てぬか?」
「くっ」
 常に均衡を保ち続けていたお二人でしたが、徐々に頼光殿は柳也殿に圧されて行くのでした。
「老いとは哀しきものだな……。晴明殿に頼光殿、嘗て我が目標と仰ぎし者は皆老いにより腕を衰えさせて行く……。
 無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァァァ!!」
「ぐふうっ!」
 既に挽回が不可能なまでの劣勢に立たされし頼光殿に、柳也殿の強烈な連打が浴びせかけられました。その猛打を防ぎ切れなかった頼光殿は、私達の方へ飛ばされてしまいました。
「兄者!」
「くうっ。やはり老いたものだな……。今の私ではやはり貴方には敵いませんな。されど、目的は達した…」
「目的は達した? はっ!」
 大地に倒れし頼光殿に目をやっていた頼信殿は、頼光殿の手に抱えられし物にはっとしました。
「それは……奴の面……」
 驚くべきことに、頼光殿の手には柳也殿の朱に交わりし面が抱えられていたのでした。
「一本取られたな……。最初からそれが目的か?」
「ええ。まともに戦って私に勝ち目がないのは当初から分かっておりました。されど、私の目的は貴方を打ち倒すことではなく、貴方のお考えをお聞きになること。力尽くで聞き出すことは叶わぬとも、面を奪い取り口を開かせる展開に持って行くことくらいならば今の私にも叶います」
「敗因は拳を交えることに拘った我自身か…。流石は頼光殿だな……」
 そう静かに語り終えますと、柳也殿は私達の方にお顔をお向けになりました。
「なっ……?」
 そのお顔を見て頼信殿は驚きの声をあげました。
「兄者より顔が若い……」
「奇妙なことを申されますね、頼信殿。柳也殿が頼光殿よりお若いならば顔がお若いのは自然なことなのでは?」
「いや……若いと言ってもほんの二、三歳なのだ。兄者は四十五を過ぎた身だが、顔は三十代だと言われている。されど、奴は僅か二、三歳なのに兄者より更に十は若い顔をしている……」
 確かに柳也殿のお顔はお若いです。丁度頼信殿と同じくらいでしょうか。
「やはりお若いお顔をしておりますね。先程の戦いから察するに顔だけではなくお身体や能力も二十代をお保ちのご様子ですね。流石は柳也殿、いえ、広平親王殿下」



「……」
 周囲には長い沈黙が訪れました。無理もありません、目の前にいらっしゃる柳也殿は病死した筈の広平親王殿下なのですから。
「どういうことだ、兄者……? 広平殿下は病死為さられたのではなかったのか……?」
 まず口火を切ったのは頼信殿でした。
「いや……それは虚実だ。実際は”暗殺された”のだ。それを隠す為”病死された”と周囲には情報を隠蔽、捏造して伝えていたのだ」
「待ってくれ、兄者! 話がまったく噛み合わん!! 病死は虚実で事実は暗殺? じゃあ目の前にいるのは一体誰なんだ! まさか広平殿下の霊だというんじゃないだろうな!!」
 頼信殿の仰ることはごもっともです。事実が歪曲されたというのも衝撃的ですが、ならば目の前にいるのは一体誰なのだと?
「順を追って話をしなければならないな。もっとも私の知っていることが完璧な事実という保証はないが、それでも少しは事実に近付けると思う。宜しいですかな、殿下?」
「構わぬ。いずれは話そうと思っていた事だ」
「御意。では……」
 頼光殿の語る完璧ではない事実。その話は今から二十五年前の安和二年にまで遡るといいます。
 安和二年弥生二十五日、中務少輔なかつかさしょうふ橘繁延たちばなのしげのぶ等が時の皇太子守平もりひら親王を廃し、兄の為平ためひら親王を東宮に立てようと企てているという密告が満仲殿等によって行われました。この密告を耳にした時の右大臣藤原師尹もろただ公は直ちに宮中に参入し、諸門の出入りを禁じて警護を固める一方、密告文を時の太政大臣藤原実頼さねより公の元へ届けました。また橘繁延等を捕らえて喚問した所、逃れられずに罪に服しました。
 しかし事件はこれだけでは治まりませんでした。この事件には為平親王の妃の父である時の左大臣源高明たかあきら公が荷担していたということになりました。
 翌二十六日、言われようのない濡れ衣を着せられた高明殿は必死の弁明を繰り返すと共に出家して京に留まることを願いましたが、それは許されず大宰府に流されることとなりました。
 後に安和の変と呼ばれるようになったこの事件は、師尹殿が高明殿を失脚させようとし起こした事件だと言われております。
「この事件はお前も知っておるな」
「ああ。我等源氏が朝廷内にそれなりの地位を築くこととなった事件だからな。もっとも、事件当時俺は二歳で詳しいことは父上や兄者から聞いて知ったのではあるがな」
「だが、実はこの事件の裏にはもう一つ重大な事件が起きていたのだ」
「それは一体……?」
「それは広平親王殿下による草薙の太刀強奪事件だ!」
 頼光殿の話はこうでした。満仲殿等の密告により宮中が騒然としている中、三種の神器の一つである草薙の太刀が広平親王殿下により宮中に持ち出されたと。
「この事件は誰もが予想し得なかった事件であった。何せ、東宮にすらなれず後見人もいない広平親王殿下が事件を起こしたのだからな」
 安和の変は皇子絡みの事件とはいえ、この事件に関係していたのは亡き安子様がお産みになられた皇子達でして、他の皇子は蚊帳の外でした。
「宮中は更なる混乱に陥ったが、三種の神器の一つが強奪されたとは一大事と、早急に討伐隊が組織された。討伐隊に布告された命令は草薙の太刀と”広平親王殿下の首”を持ち帰ることだった」
「殿下の首!?」
「どうせ使い道のない皇子だ、逃亡ついでに暗殺してしまおうというのが師尹殿等の腹であった」
 この時代の皇族は、言わば権力を得る為の道具でした。権力に近付く一番の方法は己の子を皇族の婿や嫁にし外戚関係を築くことでした。そんな中最も高い地位を得る為の方法は己の娘を帝の御息所とし皇子をお産みになることでした。その皇子が東宮、帝となり己が摂政や関白を務めれば権力を掌握したも同然。それは裏を返せば自分と関係のない皇子は邪魔者以外の何物でもないということでした。
「だが、その討伐隊はほぼ全滅だった。”柳也”という名の男を除いてな……」



…巻七完


※後書き

 ようやく明かされ始めた柳也の謎。まあ、自分が勝手に謎にしているだけですが(笑)。この辺りの詳細は今回で書き切るつもりでしたが、量が膨らみ次回に持ち越しになりました。
 それと今回歴史ネタが色々と出ましたが、詳しい日付や固有名詞が出ているものは大体史実だと思って下さい。もっとも細かい心情などは言うまでもなく完全な創作ですがね。
 今回に限れば、頼信の母が元方公の娘であるというのは完全な創作ではないものの、異説として扱われているものです。一般的な説では陸奥守藤原至忠の娘と言われています。 ただ、物語としては異説の方が展開が面白くなるので敢えて異説を使いました。故に、頼信が不遇の身に処されているというのは完全な創作ですね。
 さて、次回は柳也の正体や目的が完全に判明し、その次からは舞台を高野山に移す予定です。何と言いますか、徐々にゴールが見えて来たので頑張って書きたいものです。

巻八へ


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